2018年11月26日月曜日

それはあたりまえじゃない! 対話を通してここちよさと自由を追求することが社会を少し動かす道

川上村では、色んな人が参加しながらホームページを使って情報発信する「 むらメディアをつくる旅 」を開催しています。今回は大辻孝則さん・早稲田緑さんをインタビューし、インタビューに参加した5名(久保田紗佑歌さん、小池悠介さん、齊藤美結さん、若林佐恵里さん、花輪佑樹さん)が記事を作りました。川上村のホームページには小池さんの記事を代表例として掲載しています。本記事では、若林さんが作った記事を掲載します。

それはあたりまえじゃない!
対話を通してここちよさと自由を追求することが社会を少し動かす道

自分にとってあたりまえだと思っていたことが、実は誰かにとってはそうではなかったという経験はありませんか?たとえば、会社には通勤するものとか、結婚する時は婚姻届を提出するものとか、そういうふうに考えていませんか。自分がどう思うかなんて立ち止まって考えることなく、常識だと思って無条件に受け入れていることはありませんか。

今回のむらメディアの旅で、「あたりまえ」や「常識」を軽やかに打ち破って人生を自分のものにしていくふたりに出会いました。大辻孝則さんと早稲田緑さんです。ふたりは事実婚で夫婦となり、一児をもうけました。「あたりまえ」を疑いながら、自分にとってここちよい家族の形は何かを問い、常に家族をアップデートしてきたというふたり。

あたりまえ人間のわたしには「事実婚ってなに?」「どうして事実婚?」「子どもの名前は?」などなど「?」がいっぱいで聞きたいことだらけでした。そこで、川上村高原に住む大辻孝則さん、早稲田緑さんにインタビューさせていただきました。(以下、孝則さん、緑さん)


●川上村で暮らす一見ふつうの移住家族

孝則さんは川上村生まれ、川上村育ち、高校から大学まで川上村を離れたこともあるけれど、大学卒業後は川上村役場に勤務しています。自然環境のよい場所で育ったので、都会のエアコンが苦手だそう。

早稲田緑さんは横浜生まれ。6年前までは東京でバリバリ仕事をしていました。多忙な生活の中で「このままいったら、自分に投資ができない。もっと生命力をあげたい」そんなふうに思うようになりました。そこで偶然みつけた川上村の地域おこし協力隊に応募。採用されて、川上村に来ました。


二人の住む川上村高原という集落は、民家が山にへばりつくようにして建つ谷あいの村。車を止めた道路から、まっすぐ上を見上げると家があります。急斜面をぐねぐねとまわりながら登ると、孝則さん緑さんの家がありました。近くには柚子の木があり、たわわに実った柚子を孝則さんと息子のミキトくんが収穫してくれました。「どうじょ(どうぞ)」と旅の参加者に柚子を笑顔で手渡すミキトくん。自然の恵みとやさしさをいっぱいもらってすくすく育っているのが伝わってくるような笑顔でした。


「住んでくれるだけでいいから」と借りている家は南向きであたたかい光のはいる古民家。「冬は光がはいるように、夏は入らないように考えて建てられているんですよ」と孝則さん。川上村の特産でもあるスギやヒノキの木をふんだんに使ってリノベーションしたというキッチンやリビングは初めて来た家なのに、不思議に落ち着く空間でした。「木をたくさん使っているということは子どもの情緒のためにもいいと思うんです。根拠はないけど」と笑う緑さん。川上村ではゆっくりと時間が過ぎて行きます。


●管理されることへの違和感。自分の思いを大事に事実婚へ。

川上村伝統の和太鼓を子どもに教えていた孝則さんと「何か楽器をさわりたい!」と思っていた緑さんは川上村の和太鼓のイベントで出会ったそうです。和太鼓を通して会ううちに、仲が深まり、自然な流れで一緒に住むようになりました。

「そのままだったら普通に一緒に暮らしていただけだったと思う。結婚はしたくなかったから」と緑さん。だけど、今2歳のミキト君がお腹にいるとわかってから事情が変わりました。現行の民法では、籍を入れていない母親から生まれた子どもは父親とは全くの他人になってしまいます。「それは困ると思いました。孝則さんがミキトの父親であること。わたしたちが両親であることを認めてもらいたい」「でも、入籍するのは違和感がある。どうして女性が名字を変えなきゃいけないのかわからない」そんな葛藤の中、緑さんが自分の考えを率直に孝則さんに伝えました。孝則さんは「結婚するならふつう婚姻届はだすもんやろ?」と思いながらも「でも、待てよ。なんでこんなシステムになってるんやろう」と疑問を持ったといいます。そして、結婚制度、戸籍制度について紐解いていくと、それは明治時代にはじまったこと、そして政府が国民を管理するために家族になっていたほうがやりやすかったからだという事実にいきあたります。孝則さんはそこまで知ったうえで、「それなら、籍は要れなくてもいい。管理されるのはいややからね」と笑顔で話してくれました。


二人は川上村の神社で結婚式をあげました。家族だけの小さなものにするつもりでしたが、結果的に村の人たちが50人ほど来てお祝いしてくれたといいながら、緑さんは結婚式の写真をみせてくれました。

●正社員だけど週4完全リモートワーク


緑さんはこうも続けます。「わたし、会社員だけど完全なリモートワークで週4回しか働いていないんです」それを聞いた私たちは目がテンに。「入社する時にそういうふうに交渉しました!わたし子どもがいるから」と。「ふつう正社員なら通勤して週5でしょ」と参加者の心の叫びが聞こえるようでした。緑さんは「通勤時間は無駄だし、非効率なことをちゃんと排除すれば、週4日で仕事はまわりますよ」と実は誰もが心の中で叫んでいながら実際には口に出して言えないことを、あっさりと代弁してくれました。内心、こんな人が上司だったらな……と感じた人も少なくないはずです。「でもね、言っていることとやっていることが一致していないといやなので、言うだけじゃなくちゃんとやりますよ」と意志の強い瞳で宣言する緑さん。

「なぜそんなふうに流されず、自分の意志で自分の人生を作っていけるのか?」とインタビュー参加者の一人が聞きました。すると、「感受性が強いのかな?例えば戦争で苦しんでいる人などを見ると、どうしてそういうことになっているんだろう?と疑問に思うんです。だから本もたくさん読む。オススメはね……」と緑さんは本をいろいろ紹介してくれました。そして、こう教えてくれました。

「事実婚やリモートワークを選択したことで世界を変えたいわけじゃない。そんな大それたことはわたしにはできないけど、自分のことは自分で決めたいんです」

●村の人の生命力に惹かれて 


わたしは「緑さんが孝則さんに受けた影響は何ですか」と聞いてみました。すると即座に「生命力です」という答えが返ってきました。

「孝則さんは生きる力がすごいんです。たとえば飲む水って普通作れないじゃないですか。でも、この人は作れてしまうんです。水道の仕事をしていたというのもあったんですけど。屋根を直したり、野菜を育てたり、そういうことがすぐできる。それって、どんなことがあっても生きていけるってことですよね?すごくないですか?」とちょっと興奮気味に語る緑さん。

孝則さんも照れながら「現代文明に依存するのは嫌なんです。このあいだの台風の停電でも全然大丈夫でしたから。電気は太陽。食べ物は備蓄されているものと畑から。暗くなったら寝るだけです」とはにかむ孝則さん。緑さんいわく、川上村には「南海トラフが来ても大丈夫」と言う人たちがいるそうです。それは数々の災害から学んだことが世代を越えて蓄積されているということにほかなりません。かたや、都市にくらす人々にとっては災害は死活問題。災害の多かった今年はそれを実感する機会もたくさんありました。水道が数日止まるだけで、電気が来なくなるだけで、右往左往してしまう現代のわたしたち。その生命力のなさが少しかなしい。生命力があるということは自然とともに生きられるということ。それは人間の本来の姿なのではと思わされました。


●自分を偽らず生きること

わたしは川上村で緑さんと孝則さんに会って、損得勘定抜きで自分の感覚に従って生きることを学びました。40年近く生きてきていつもどこかに「これをしたら、周りはどう思うだろう?」と自分自身にささやいていました。そして、時にそれが何かをあきらめさせ、選ばなくていい何かを選ばせてきたように思います。だけど、二人のように生きることが自分だけの幸せをみつけるひとつの方法なんだということに気づかされました。それは大きな発見でした。

日本の社会は自分の心の正直であるよりも、周りと足並みをそろえ、その場の空気を読むことが強く要求される社会です。だけど、それこそが生きづらさの原因なのではないか。「あたりまえ」を疑い、「常識」にとらわれず、自分に正直に生きる勇気をもつ。
そして、自分がここちよいように暮らし方を少しずつ変えていく。ただそれだけで、人生は少しずつ変わり始める。そうやって、自分だけの人生を作ってけるのは自分しかいない。
そう思えたとき、川上村での別れ際に、手を振ってくれた緑さんと孝則さんの笑顔が心に浮かびました。

自分の声に正直であり、それ信じて自分の生活を変えて行くことこそが、小さいけれども社会を変えていく一歩につながる。そう確信した川上村での一日でした。


手づくりの幸せが息吹く、豊かな暮らし。 山の上で紡がれる「あたらしい家族」形とは?

川上村では、色んな人が参加しながらホームページを使って情報発信する「 むらメディアをつくる旅 」を開催しています。今回は大辻孝則さん・早稲田緑さんをインタビューし、インタビューに参加した5名(久保田紗佑歌さん、小池悠介さん、齊藤美結さん、若林佐恵里さん、花輪佑樹さん)が記事を作りました。川上村のホームページには小池さんの記事を代表例として掲載しています。本記事では、齊藤さんが作った記事を掲載します。

手づくりの幸せが息吹く、豊かな暮らし。
山の上で紡がれる「あたらしい家族」形とは?

「しあわせとは?」

いま、自分の胸に手を当てて、耳を澄ませて、ちょっぴり聴いてみましょう。


さて、答えは出ましたか?


この問いにすぐ答えられるひとは、あまり多くないように思います。


わたしも、そのうちの1人でした。


でも今回のインタビューを通じて、わたしの「しあわせ」の輪郭が、昨日より少し浮き彫りになった。


「いらっしゃ〜い!」


秋晴れの昼下がり、私たちを笑顔で手を振りながら迎えてくれたのは、孝則さん。
わざわざ、家の下まで降りて迎えに来て下さっていた。
目の前に映る、伸びやかに広がる青空と山のように、心にさわやかな風が吹いた。


今回、お話を聞かせていただいたのは、早稲田緑さんと、大辻孝則さん。
お二人は世間でいう、「事実婚」をされているご夫婦だ。
みきと君という保育園に通う息子さんと、おなかの中にもう一人、お子さんがいらした。


ひとことで2人を表現すると、風の人と土の人。
山の上の暮らしには、昔ながらの先人の知恵のもとに、二人にしか生み出せない風土が根付いていた。


早稲田緑さんは、東京生まれ東京育ちの超都会っ子。
新卒で東京の翻訳会社で営業として3年勤めていた。ご自身でも「バリバリの営業マン」だったと言う。現在は、企画会社に週4回在宅勤務で勤める正社員である。
一方で、大辻さんは川上村生まれ。一時期大学で大阪に出てはいたが、川上村へUターン。はじめは林業の仕事を行った後、10年以上川上村の役場に勤めている。


正直経歴を聞いただけでは、
二人は一見正反対に見えた。


活動的で社交的な、緑さん。
比較的物静かで職人気質の、孝則さん。


2人が出会い、なぜ一緒になったのか気になった。
でも話を聞いていくと、腑に落ちていった。
ふわふわ海にコインが沈むように、ゆったりと理解できていった。


いのちの根っこの部分がぴったり重なっていたのだ。


「自分の心地よいところまでしかやらないと決めています。」
緑さんが、芯の通った声で、澄んだまなざしで言う。



「例えば、100円しか持ってなかったとすれば、どれだけソーシャルなものが200円だとしても、それは買えないですよね。だって、100円しか持ってないんですもん。(笑)だから100円しか持っていなければ、その範囲でできることをする。それはみんな一緒だと思います。」


続けて緑さんは言う。


「こう、なんというか、やってみるしかないというか。自分が生きてみるしかないんですよね。」


自分の身の丈を理解しているからこそ、
伝えられるメッセージの力強さや信憑性みたいなものが、不純物がない形で生まれてくるのかもしれない。

人が表面的に見えている言葉や考えは、その人を形成している概念の2割だと言われる。
だからこそ、8割が持っている「じぶん」をできるだけ表現していく。
緑さんは、そのプロセスの中で「生きる」ことを、一歩ずつ、たいせつに、暮らしの中で、踏みしめていた。


《ひとが、ひとで、あれるように。》
この一貫した考え方のもと、ご夫婦の暮らしは紡がれてきていた。


例えば家族会議。
なんと毎月話し合いをして、議事録を書いている。
(実施日、実施時間、議題、などものすごく本格的な記述だった。(笑))
その議事録はリビングの壁に見えるように飾られている。


項目は、今月できたこと、やり残したこと、気になっていること、すぐにやりたいわけではないけどゆくゆくやってみたいこと、など。


そして驚くのが、収入は別家計簿ということ。
支出も役割分担。
家計簿は、互いに見せられるようにしているそうだ。


「家族を養うために仕事をしているわけではないので。自分のパフォーマンスに対しての対価をいただいているだけ。この土地にはこだわっていません。」孝則さんは、話す。


やりたいことを、お互いにやる。
その哲学が貫かれていた。



ひとりだけど、ふたり。
ふたりだけど、ひとり。
このことばが、ぴったりだった。


●川上村という土地が自分たちの幸せにたまたまフィットしただけ。


では、なぜこの川上村という舞台で暮らしを営むのか。


答えを聞いてかなり驚いた。
川上村を元気にしたい!という力んだ発想ではなく、高原に住まう二人。


自分たちの幸せにとって、川上村という土地がたまたまぴったりだった。
チューニングした結果、川上村の高原、という土地だった。


なんてシンプルなのだろう。


「ぼくたちね、余計なもの持ってないんです。」
孝則さんは言う。


「家賃を払うために働くことはしたくなくて。それは、ぼくたちにとっては幸せじゃないんです。動きやすく、身軽に生きたいんですよね。」


ミニマリストが謳われるこの世の中で、
孝則さんの言う「身軽さ」は少しそれとは違う気がした。


純粋に生きるための「必要なもの」だけを、大切にしたい。
それは、愛する家族や、美味しい空気や水、自分らしくあれる自然の景色。


ミニマムではなく、マスト。
必要最低限まで、マストを淘汰して、その結果「身軽さ」を手に入れていた。


続けて孝則さんは言う。
「水が出るのも当たり前、電気がつくのも当たり前。電車も少し遅れたら謝ってもらえる。お金の対価としてサービスを受けている。でも、もし「やーめた」と言われれば終わりですよね。依存しすぎだと思うんです。」


たしかに、そういわれてみれば、、とはっとする。
孝則さんの持つ生命力の強さ。


それは、自然豊かな川上村だからこそ生まれた、ひとつの大きく広い愛の形にも思えた。



事実婚を選んだ理由も、そうだった。
「自治体が管理をするために導入した制度ですからね。特に必要ないと思ったんです。」


私たちは知らず知らずのうちに、
「誰かの都合」で生きている時間が増えてしまったのかもしれない。


私は、25歳社会人3年目の独身女性。
結婚、出産、仕事。。。
ライフスタイルを、どうやってデザインしていけばいいか悩みもがいていた。


今回のインタビューで、ひとつ気づいたことがある。
それは、自分のしあわせは、必ずしも「多くの人が望むこと」とイコールではないと。


自分のしあわせは「手づくりしていく」ということだと。


では、どう手づくりしていくのか。
それは、自分と対話するしか方法はない。


いま世の中はどういう状況なのか、
これからどんなことが人の役に立つのか、
自分はどんな風になりたいのか。


ひとつひとつ、緑さんと孝則さんは、
世の中への問いと自分たちの答えを持っていた。


私の好きなコピーライターに、岩崎俊一さんという方がいる。
その方の本の一説に、こんな一文があったのを、ふと思い出した。


「幸福になること。人は、まちがいなく、その北極星をめざしている。」


北極星は常に変わらない位置にあるらしい。
つまり消えることはない。見えないときは見えてないだけなのだ。


緑さん、孝則さん、みきとくん、おなかにいる赤ちゃん。
奈良の山奥にある一軒家から、たしかにひとつのきらりと瞬く北極星を目指していた。



そんなとき、ポツと疑問が浮かんだ。
結婚とか出産とかって、わたしにとっての北極星だったっけ?


いや、待てよ。
それをするためにわたしは生まれてきたんじゃない。


では何のため?
自分が幸せになるために生まれてきたのだった。


あたりまえのことをすっかり忘れかけていた。


「自分の幸せ」へ歩んでいく中で、
愛する人と一緒に生きること、
その人との間に命を授かること、
それが自然発生的に生まれてくるだけだ。


なんだか、一気に肩の荷が下りた気がした。


「私は、ひとりの人間として、幸せという名の北極星に向かって歩めばいい。それだけだ。」


最後に、みきと君のすごいところを、私はどうしてもこの記事で伝えておきたい。


お二人の息子さん、みきとくん。
月並みの表現にはなるが、ほんとうに食べちゃいたいくらい、かわいい。
人懐っこく、だれにでもフレンドリー。


この、のびのびとした性格は、高原の自然豊かな景色を毎日見ながら育っているからなのかもしれない。常にご機嫌だそう。

彼がひとこと発すると、どこか澱んでいた空気が、すっと清らかになる。
まるで、山から流れ出てきた湧き水のように。
まるで、魔法つかいみたいだった。



そんな彼は、アンパンマンのおもちゃ携帯を手にして、
インタビュー中もひたすら私たちの集合写真を撮ってくれていた。
(もちろん現実世界には写真は存在していない。(笑))


それも、なかなかにいろんなルールがあった。
写真を撮る時には決まって、被写体の私たちは、この言葉を言わなければならない。


「みぃきぃとぉのしゃしん〜〜!ぱしゃ!」


なぜいうかは、謎だ。
でもこのかけ声の周りには、美しくきらきらしたものが漂っていた。
陽の光に当たる、シャボン玉みたいに。


みんなの嬉しそうなかけ声と、
ひろと君の笑い声が響く山の上。


そこには、たしかに、ありありと。
心を緩やかにしてくれる幸せが奏でられていた。


その時、気づいてしまった。


「いや、みきとくんの撮った写真は、たしかに存在してる。」と。


目には見えないかもしれない。
でも、あたたかくふんわりとした何かが、
彼の目にはその瞬間、確かに写っていたのだ。
くっきりと鮮明に、彩られているんだ。


だから、写真を撮り続けているのだと。


「写真ってこの携帯で本当に撮れてるんですか?」と、
緑さんに聞いてしまった自分がなんだか、とってもちっぽけに思えた。


そんなみきとくんが、秋晴れの空のもと、
私に「どうじょ」と、小さな手から渡してくれた柚子からは、山の上の手づくりの幸せが、今も香る。



生きることは、簡単ではない。


でも、一つわかったことがある。


ほつれたら、縫い合わせればいい。


壊れたら、修理すればいい。


なければ、つくってみたらいい。


「自分の幸せ」を、こつこつ手づくりしてみませんか?

これがきっと、自分の北極星に向かって、豊かな暮らしを手作りする一歩になるのかもしれません。


2018年11月5日月曜日

心も体もあたたかく。 移住1年目の僕が移住20年の陶芸家・鈴木夫妻にきいた、村で暮らすということ。

川上村では、色んな人が参加しながらホームページを使って情報発信する「 むらメディアをつくる旅 」を開催しています。今回は「いにま陶房」の鈴木雄一郎さん・智子さんをインタビューし、インタビューに参加した3名(冨羽一成さん、山口桃佳さん、山本英貴さん)が記事を作りました。川上村のホームページには山本さんの記事を代表例として掲載しています。本記事では、冨羽さんが作った記事を掲載します。

心も体もあたたかく。
移住1年目の僕が移住20年の陶芸家・鈴木夫妻にきいた、村で暮らすということ。

秋も一段と深まり、日が陰ればすこし肌寒ささえ覚える。この取材時、僕は川上村へ移住してきて約1ヶ月。この時まだ、僕の住む家にはまだ暖房器具がなかった。

 多くの人に口を揃えて「川上の冬は厳しいぞ」と教えられる。もちろん、移住するにあたって冬の厳しさはある程度理解していたつもりだが、10月中旬にして明け方は10度を下回り、身をもって「やばい」と感じている。そこで、川上村へ移住してきて20年を迎える陶芸家の鈴木夫妻に、冬を乗り越えるための知恵も含めて、お二人の暮らしや作家活動、考え方についてお話を聞かせていただいた。


●使い手の気持ちに寄り添う陶芸家

 夫の鈴木雄一郎さん(以降、雄一郎さん)、妻の智子さんは川上村内の「匠の聚」で陶芸家として活動している。「匠の聚」とは、芸術家の移住者が集うアートの里で、作品展示、販売、体験工房など、アートに身近に触れられる場所だ。鈴木夫妻は主に、食器などの作品を制作している。夫婦間で扱う素材や質感の違いはあるが、「使いやすさ」や「さりげない気遣い」を大切にした、使い手の気持ちに寄り添う作品づくりをしている。

食器のふちに“かえし”がついた作品。そっと親指を添えたくなるようなデザイン。
豆つぶなどを手を汚さず、最後の一粒まですくうことができる。

●体も心もあたたかく

 まずは冬の対策について聞いてみた。鈴木夫妻によれば、ファンヒーターが経済的、実用的にいちばんオススメとのこと。移住してきた当初は石油ストーブを使っていたが、あたたかいけど燃費が悪く、灯油代が高くついてしまったらしい。

 川上村の冬の寒さは「さむい」というより「痛い」。以前、豪雪地帯に住む友人が遊びに来た時、「こっち(川上村)の方が寒い」と言っていたのだという。北陸などの豪雪地帯は積もった雪が壁となり、風が体に当たることが少ない。それに比べて川上村は、雪が積もること自体は少ないが、冷たい風を遮るものがないため体の芯から冷える。

アトリエ内。たくさんの作品であふれている。下には寒さを
しのぐためのファンヒーターもある。

 智子さんは、寒さは体だけではなく、心までも陰鬱な気持ちになってしまうから早く寒さ対策をした方が良いと教えてくれた。智子さん自身、気分が落ち込んだ時は、心の電気をつけることを意識している。朝起きて気分がのらない時は、「ああ幸せ!」と口に出し、スイッチを入れ替える。自分自身が幸せでなければ、幸せを届けられる作品を作ることもできない。しかし、最初から気持ちの切り替えができていたわけではないという。

2階へと上がる階段には様々な作品がずらり。
それぞれにどんな「気遣い」が込められているのだろうか。

●試行錯誤で生まれる可能性

 移住してきてから2人とも落ち込んでいる時期もあった。移住当初は陶芸家としてやっていける見込みがあった訳ではなく、不安定な暮らしであった。貯金を切り崩し、とにかくお金を使わないように節制していたという。ひたすらアトリエに籠り、黙々と土と向かい合う日々だったという。

「人は追い込まれたときじゃないと、色々なことを考えない」と雄一郎さん。そういう時期があったからこそ生まれたものもある。全国各地の陶器市に出店し、まとめた量を売って生計を立て、百貨店の催事に出品するなど、地道に販路を広げた。また、当時インターネットが現在ほど普及していない中で、自分なりにWebサイトも作った。そんなある日、「クラフトフェアまつもと」の応募に通り、出店できたことが大きな転機となり、仕事の幅が広がった。


 また子どもにも恵まれ、少しずつ行動範囲がひろまっていった。そうすると、だんだん見える景色も変わり、地域とのつながりが広がると実感しているという。先日、僕が「川上村大運動会」に参加したとき、我が子を応援する「両親」としての鈴木夫婦の姿があった。

 現在、地域とのつながりを大切にし、一緒に作品を作り上げる喜びを感じてもらえるようなワークショップを行うなど、地域活動にも積極的に取り組まれている。

●暮らしを豊かにしていくには

 村で暮らしていく上で最も重要なことは、今自分のいる場所が一番だと思うことだと教えてもらった。「暮らす場所はどこでもよい。どこに住んでも不満は必ず出るものだから、ないものねだりをせず、あるもので考える。街にあって田舎にないものを考えても仕方がない」と雄一郎さん。

 住めば都というが、自分の意思次第で「都」になるということ。そうすることで、暮らしを豊かにするためのアイデアが自然と生まれてくるのではないか。僕自身もこれから村で暮らしていく上で、そんなことを大切にしていきたいと思う。

一生やりつづけたい仕事。 使いやすさにこだわる「やさしい器」をつくる鈴木ご夫婦の川上村での暮らしとは。

川上村では、色んな人が参加しながらホームページを使って情報発信する「 むらメディアをつくる旅 」を開催しています。今回は「いにま陶房」の鈴木雄一郎さん・智子さんをインタビューし、インタビューに参加した3名(冨羽一成さん、山口桃佳さん、山本英貴さん)が記事を作りました。川上村のホームページには山本さんの記事を代表例として掲載しています。本記事では、山口さんが作った記事を掲載します。


一生やりつづけたい仕事。
使いやすさにこだわる「やさしい器」をつくる鈴木ご夫婦の川上村での暮らしとは


私たちは今回、川上村役場から車で10分ほどのところにある、陶芸家の鈴木ご夫婦が拠点として活動されている「匠の聚」のアトリエへと向かった。

「匠の聚」とは川上村が1999年からはじめた取り組みで、芸術家の居住、創作の場としての活動拠点を提供している。アトリエ8棟と「匠の聚」アーティストの作品の常設展示するギャラリー、カフェ、工房室、研修室がある。その他にも来客者の宿泊施設、コテージ(5棟)その他、穴窯、イベント広場、駐車場等も用意されている。現在は、日本画・彫刻・陶芸・イラストレーター・木工・木彫に取り組む作家8人が入居しているという。


車を降りて、お2人のアトリエ「いにま陶房」へ。
暖かい日差しの中一面に山や美しい自然が広がる、手作りのお皿やカップが机に並んだバルコニーに案内してくれた。

● 土が好き

ご夫婦は元々、食器ではなく、オブジェなどのアート作品を作っていたそう。
「公募展に出したりして、自分の頭の中のモヤモヤを発散するように、ものづくりをしていた。自己満足だけ」という。


夫の雄一郎さんは、大学のデザイン科を卒業後、信楽の窯元に修行へ。
「子供ながらに、美術を仕事にしたいと思っていた。色んな素材をいじりながら。絵を描いたり、ガラクタを組み合わせたり、電気じかけのものを作ったり。たまたまテレビでロクロを見た時に、土を触りたいと思い、信楽の窯元に就職して焼き物を作っていた。仕事が終わった後、夜の時間に自分でものづくりをしていた。」と雄一郎さん。

智子さんは「子供の時からロクロの映像や吹きガラスなどをなぜか気になって、テレビでよくみていた。自然と、高校になったら陶芸の方向に行きたいと思っていた。土を触っていると気持ちが落ち着く。自然と一緒にいる時が一番自分らしくいられる。自然に触れ合いながら作品を作るということが好き。土に触っている時間も好き。土という素材に惹かれている。」という。

そんな中で職場の同僚だった2人は結婚。智子さんは、結婚後1年間は主婦として生活する傍ら、趣味で陶芸を続けていたという。

●独立を目指して川上村へ

結婚し、夫婦で5年後の独立を目指していた時、新聞で「匠の聚」の募集を知り、応募。智子さんの後押しもありそのまま移住したそう。
陶芸をするためには、窯やある程度の作業スペースも必要。都会でそのような場所を確保するのは難しく、「匠の聚」の環境はすごく恵まれたものだったそう。
しかし、川上村に移住後も独立することへの不安は大きく、生活が安定するまでは節約しながら生活をしていたという。

●「人は追い込まれたときじゃないと、色んな事を考えないと思う。」

雄一郎さんのこの言葉がとても印象的だった。

全国各地の陶器市や百貨店の催事に出店するなど、少しずつ販路を広げていく。また20年前、まだインターネットも今ほど普及していない時に、自分たちのWebサイトをつくるなど、試行錯誤しながら挑戦された。そんながむしゃらに陶芸に没頭する時間が、達成感に繋がっていったという。

「何者かにならないといけない。4年間はずっと必死だった。」と。

「「クラフトフェア松本」に出ることができたのは大きかった。」と雄一郎さん。クラフトフェア松本とは長野県松本のあがたの森で催されるクラフト市。野外のイベントで200人程の作家が参加する登竜門のようなイベント。出展できたことで仕事が広がっていった。

今では「使いやすさ」を追求しているという鈴木ご夫妻だが、その当時は食器や花入れなどを作っていて、土のゴツゴツとした質感の残るような器やインテリア用のオブジェなどアート系の作品が多かったという。

●使いやすさへの追及

移住してから4年後、お子さんが生まれ、自然と食器のバリエーションが増えていったという。また、智子さんが病気にかかり一時期、手が自由に動かせなくなった辛い経験から、手に障害のある人でも食べやすいユニバーサルデザインの器を意識するようになったという。使った時の持ちやすさ、手の添えやすさなど、使った時にさりげなく感じることのできる「使いやすさ」「器からの安心感」を大切にしている。


●20年たって見えてきた大台ケ原の景色

「この間、大台ケ原に約20年ぶりに登ったが、初めて来たときは景色を見る余裕もなくて何も覚えていなかった。けど、今回はじっくり眺めることができた。素晴らしい景色だった。今まではそういう所に目を配れていなかった。」と智子さん。

余裕がなくアトリエにこもりがちだった生活から、お子さんができたことで、少しずつ行動範囲が広がり地域の人々との繋がりもできてきた。いろんな人がいる、こんな考えの人がいる、お互いを知っていく事で、暮らしやすくなったという。今では、村内外の方々が参加する陶芸教室を開催したり、匠の聚の作家と村内をまわる出張教室も行っている。

「何をするにも時間はかかる。時間をかけて見えてくるものがある。それぞれが暮らす場所を選び、自分がいる場所を知り、大切と思える事」と雄一郎さん。

(左)鈴木雄一郎さん(右)智子さんご夫婦


●「一生やり続けたい」こと

今回のインタビューで、 独立や生活への不安感、ご自身のご病気などで「余裕がなかった、落ち込んでいた時期もあった」という言葉を何度も聞いた。私には想像してもしきれないとても苦い時期を過ごされてきたのだろうと思うと、そんな時期を乗り越えて今お2人が言う「今やっていることを一生やり続けたい」という言葉はとても簡単に言えるものではないのだろうと思った。

自分の人生で一生やり続けたいことを見つけられるかも分からないし、そのために困難や苦しさに立ち向かえるかもわからない。でもそんな時があったら、「余裕」を見つけられるまでこだわって頑張ってみたい、鈴木さんご夫婦の言葉を思い出したいと思った。

2018年1月19日金曜日

激動の戦後吉野林業を生き抜いた山の達人

川上村では、色んな人が参加しながらホームページを使って情報発信する「 むらメディアをつくる旅 」を開催しています。今回は山の達人・辻谷達雄さんを取材し、取材に参加した3名(小田芳美さん、福井崇生さん、前田知里さん)が記事を作りました。川上村のホームページには小田さんの記事を代表例として掲載しています。本記事では、福井さんが作った記事を掲載します。

激動の戦後吉野林業を生き抜いた山の達人

柏木集落へ

川上村役場のある迫集落から10キロあまり、車で20分ほどのところに位置する柏木集落に辻谷さんは今も住んでいる。ここは熊野街道の中間地点で、山上ヶ岳への登山口もあり、文豪・谷崎潤一郎の「吉野葛」の舞台にもなった集落だという。役場から車で国道169号を南にしばらく走ったのちに、どんどん細くなる山道を上がっていくと、明らかに役場の周辺とは空気が違うのを感じる。気温の差があるのはもちろん、山の気配のようなものが濃くなっている気がした。


この人は本当に84歳なのか・・・?

「山の達人」と言われる辻谷達雄さん。通称「達っちゃん」は取材に訪れた私たちをにこやかに迎えてくれた。家に招き入れるや否や、「足元寒ないか?」「みんな座れるか?」など私たちを気遣う辻谷さんは、肌のつやも良く、言葉のやりとりにも淀みがない。因みに辻谷さんの言葉の語尾には「・・・にゃ」というあまり聞きなれない言葉がつくことがある。これは川上村や隣の天川村に独特の言葉遣いなのだという。

体力に不安がでてきたため、20年間行ってきた山の学校「達っちゃんクラブ」を平成30年春でおしまいにすることを決めたという辻谷さんだが、実際に会ってお話を聞いている限りはお元気そのもの。病院にも未だ縁がないというから驚きだ。出していただいたお茶は自家栽培。素晴しい香りのお茶で私たちをもてなしてくれた。


激動の時代

川上村で生まれ育ち、15歳で山に入ったという辻谷さん。山が生きること、人生のすべてを教えてくれたと語る。最初は山守の下で働き、そして自ら会社を設立した。その後、会社を子どもに委ね、達っちゃんクラブを企画・運営してきた。

川上村には吉野杉というブランドもあるし、さぞかし順調な歩みだったのではないかと思ってしまうが、実はそうではないという。戦後に木材の需要が増し、大きな発展を遂げた吉野林業も、徐々に海外産の木材などにその需要を奪われ規模が縮小。そして伊勢湾台風やダムの建設なども、林業を主な産業としていた川上村に大きな打撃を与える。

林業と言うと伐採をイメージしがちだが、それだけではない。辻谷さんが仕事に選んだのは造林だった。伐採した後の山に、将来のため苗木を育てて山を作る仕事。村の仕事だけをしていては立ち行かないため、村外にも積極的に出ていくことで厳しい状況をしのいだという。

会社を息子さんに託したのち、もっと村へたくさんの人に来てもらわなければ、という使命を感じて始めたのが、山の学校「達っちゃんクラブ」だった。20年にわたって、多い時には年に10回以上も開催されたという「達っちゃんクラブ」。川上村の、山の自然の素晴しさをもっと多くの人に知ってもらおうというこのプログラムは、山菜採りや釣り体験、ハイキングに味噌づくりなど多岐にわたる。これまでに参加した人の数は累計で8千人以上。リピーターも数知れない。参加者の「また来たい」という言葉が励みになり、20年にわたって続けることができたと笑う。


現在とこれから

達っちゃんクラブの活動は、平成30210日(土)の「手作り味噌に挑戦」でその幕を閉じる。その他に現在行っている活動としては、小学校などへの出張授業がある。今後は、川上村のホテル「杉の湯」で、村の歴史などを語る「語り部」を頼まれていて、挑戦を考えているという。また、およそ70年にわたって毎日欠かさずしたためている日記をもとにした本の執筆にも取り組みたいと語る。これが実現すれば、平成10年に出版された「山が学校だった」に続く著作となる。


取材してみて感じたこと

率直に感じたのは、世の中凄い人がいるものだなということ。80代半ばにして、未だこれから取り組もうとするものがある。周りからもまだまだ必要とされていることがひしひしと感じられた。人任せにせず自分で考えてやる、ということを信条に、前向きに目の前の課題に対して取り組んできたからこそ、これまでやってきたことに悔いはない、と胸を張れるのだと思った。自分の体験を言葉で多くの人に伝えておきたいという達ちゃんに、ぜひ会いに行って、その話に耳を傾けてみて欲しい。きっと前向きな気持ちになれるはずだから。